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甦える30年前の感覚

故 鈴木孝夫先生の著書をよみなおす

起|『ことばと文化』の思い出

言語社会学者の鈴木孝夫先生がお亡くなりになった。94歳というご高齢だった。鈴木孝夫先生といえば、僕の中では圧倒的に岩波新書の『ことばと文化』だ。大学2年生の時に読んだ。これが抜群に面白かった。例えば、日本語の「湯」にあたる言葉が英語にはない、という指摘。英語のwaterは、温度に関しては元来中立的な性質を持っている、という指摘は眼から鱗だった。さらに「水」に対する日本語の奥深さ。日本語の「氷」を表す自然現象は、雹(ひょう)、霰(あられ)、霙(みぞれ)、雪と、実に多様で、これは文化構造と密接に結びついているというのが、鈴木先生の視座だった。そして、言語というのは「絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分された、ものやことの集合であるかのような姿の下に、人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っている」とわかりやすく解説してくれ、あまり言葉が好きではなかった私の、言葉に対する考え方を180度変えてくれた本なのである。

思い返せば、『ことばと文化』は大学のある授業のレポートの課題本だった。今となっては、担当の先生の名前も顔も思い出せない。ただ、薄ら覚えているのは、毎週先生が指定する新書と文庫を読んで授業中に内容を議論し、毎回レポートを提出することで評価する授業で、あまりの大変さから人気がなかったということだけだ。サークルのおしゃべりで「授業単位の取りやすさ」を先輩から教えてもらうのは常だけれど、そこで「あんな大変な授業は出たらあかん」と言われる授業の1つだった。しかし、シラバスに書いてある本があまりに魅力的で、受講することにした。

課題となる本は、覚えている限り、次の著作である。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(岩波文庫)

トルストイ『光あるうちに光の中を歩め』(岩波文庫)

マーク・トウェイン『不思議な少年』(岩波文庫)

鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波新書)

大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)

田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)

ドナルド・キーン+司馬遼太郎『日本人と日本文化』(中公文庫)

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人気のない授業だったため、参加人数が少なくゼミナールのような雰囲気だった。参加者が全員、課題本のどの部分に共感し、どの部分に違和感を感じたか等を議論し、それを踏まえてレポートを作成するのだけれど、次の講義の始まりには採点が返ってくるテンポも良かった。良いレポートについて先生の評価を聞くのも、どういう観点で本を読むか、大変参考になった記憶がある。もう30年くらい前の出来事を覚えているのは、この授業を通じて「日本語で文章を書く」訓練を楽しみながら身につけることができたからだ、と思う。

承|カルチャーショックの後で何をするか

もう一度、『ことばと文化』を読み直してみようと思い、本棚から探し出した。しかし、そこで面白かったのは、『ことばと文化』に挟んであった当時のレポートが出てきたことだ。英語コースと書いてあるから、おそらく大学3年生の時の、何かのレポートである。

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稚拙なレポートである。しかし、そこで引用している言葉を読むと「リフレーム(意味の捉え直し)」をすることで、文化をよみなおすことの大切さを、なんとか伝えようとしていることがわかる。例えば、阿部謹也先生の次のようなことばが見える。

「日常生活のなかで、人々がどういう付き合い方をしているか、その付き合い方に国家や社会がどう影響を及ぼしているかということを見る。振り返って同じ目で日本を見る。そして再度日本を見る目でヨーロッパを見直す、という交互作用をしないといけないと思うのです。日本を見ないで世界を見ることは出来ず、そして日本を見るためには自分を見る必要があります。最初にお話しした、私が学生にかしている「自分とは何か?」という問題に帰着するわけです。」

ここで面白いのは阿部先生のリフレーム(捉え直し)が、ベースとなる視点からターゲットを見て、さらにターゲットの視点からベースを見直す「交互作用的リフレーム」を推奨している点だ。さらに、ベースとなる自分を深堀せよ、という。つまり、リフレームの基点となる自身を見つめなおすのだ。この指摘は、リフレームの方法を探究する「みつかる+わかるモデル」にも生かさなければならないだろう。

人間の脳というのは面白い。このレポートを読み直しただけで、大学生の時の暮らしが鮮明に甦ってきた。思えば相当前の記憶である。しかし、何かのきっかけさえあれば、人間の脳は30年前の記憶を引き出しからサッと出してくれるのだ。

転|日本の感性をどう世界に貢献させるか

さて、鈴木孝夫先生の話に戻そう。

我が家の図書室を見ていて、鈴木先生の新しい著書を発見してしまった。タイトルは『日本の感性が世界を変える』(新潮選書)である。いつ、なんで購入したのか、まったく覚えていない。しかし、今が読むべきタイミングであることは間違いない。そこで週末、本書を読み、鈴木先生が晩年どのようなことを考えていたのか、を掴むことにした。ポイントを要約すると次のようになる。

鈴木先生の晩年の視座は、日本の感性をどう世界に貢献させるかにある。16世紀から始まった大航海時代以後、世界は西洋文明を主導とする時代で、それには限界が来ている。世界の異常気象や人口爆発で、地球自体がおかしくなっている。西欧型の近現代人の目指す目標は、人間の幸福と繁栄のみであり、自然界の安定した秩序をほとんど回復不能にまで破壊してしまった。そこで日本の感性に注目したい。自然や人との和を大事にしてきた日本文明の方法をどう世界に広めるかが大事になる。特に江戸時代は、対外戦争で死者も出さず、自国の中で農業では循環システムを構築し、文化的な発展も著しかった。この日本の感性を生かし、地救人にならなければならない。

この著作の出版は2014年だから、今から7年前。鈴木先生は言語社会学的視座から、新しい人類の物語に入るためのヒントを本書で著していたのだった。その切実な思いは、あとがきに明確に記されているので、抜粋しておきたい。

「ところが近時の異常ともいえるほどの電子情報技術の急速かつ大規模な発展により、これまで世界中に広がって、それぞれが特異な個性を維持してきた人類の様々な社会集団を、相互に隔ててきた距離と時間が、急速に消滅し始めた。その結果あらゆる国の人々が等質の情報を同時に共有でき、そのため世界の処分めいが一つの強力な西洋文明に収斂し始めるという、これまでの人類の多様な生き方を大きく変える未曾有の事態が日々加速度的に進行している。

 そして日本も後れを取ってはならぬとばかりに官民ともに躍起となってこの流れに乗ろうとしていることは、いまの政府の掲げる重点政策の中心が、デフレを一日も早く脱却して、さらなる成長を遂げることに置かれていることを見れば明らかである。

 しかし私はこの姿勢は間違っていると思う。十九世紀末の遅れた日本が、僅か百年余りで経済や技術の点で先進欧米諸国のレベルに追いつき、いくつかの分野では一時追い抜くまでに急成長することができた理由は、日本人が完全に西洋的な考え方や価値観世界観を身に付けることに成功したためではなく、むしろ西洋とは異なる日本的な人間観や社会観を基本的には残しながら、江戸時代に培われた高い民度に支えられて、古い日本ではあまり発達していなかった客観的普遍的な性格の強い科学技術や理化学を重点的に学んで取り入れることができたからなのである。」

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この考えは、橘川幸夫の「時代の起承転結」、宇沢弘文の「社会的共通資本」、中村尚司の「地域自立の経済」につながっているように思われ、新しい時代の物語をつくる上で、非常に大事な前提となる共通認識のように思うのだ。

結|江戸時代の方法

そこで見つめ直したいのが江戸時代以前の方法である。これは前近代の方法と言ってもいい。僕たちはあらゆる面で、江戸時代以前の優れた方法を捨て去ってしまったのではないだろうか。明治以降の近代化150年の間に、捨てなくてもいい方法すら盲目的に捨ててしまったのではないか。それは社会経済だけでなく、教育の面でもあるように思う。

最近、市川さんと江戸時代から明治初期に活躍したフィールドワーカーの話ばかりである。例えば、南方熊楠、鈴木牧之(ぼくし)、松浦武四郎などだ。そして、一緒に立教大学に資料を探しに行った鶴見良行先生のことばかりである。

僕らが展開している「みつかる+わかるモデル」の「みつかるモデル」は江戸時代のフィールドワーカーのように好奇心のセンサーを発揮して、多くを手書きで記録し続け、そこから独自の仮説を導くものである。それは一見、非効率で時間がかかるけれども、手と頭が繋がり、そこから様々な連想が浮かんでくる利点を現代に甦られようという試みでもある。

江戸時代、前近代の英知を採掘しながら、今の科学的アプローチへブリッジする。

この作業を、今後もみつかる+わかるでは続けていこうと思う。

それにしても、学生時代に強烈に記憶に残っている研究者の考えが、今になって共鳴してくるなんて、当時は知る由もないが、さまざまなところに新しい発見につながる縁を感じるのは、歳をとってきた証拠なのだろうか。