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華厳の教えと西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一

ジェネの読む本 20210919『西田幾多郎と双面性』(その1)

· ジェネの読む本

西田幾多郎と井筒俊彦は、ジェネレーターの哲学の基盤をあたえてくれる二人だ。この二人の思想を仏教哲学の面から読み解こうとする西平直さんの本から学ぶことは多い。

西平さんの著書『西田幾多郎と双面性』(ぷねうま舎 2021年)からジェネを考える上で「ピン!」と来たことをする。その1は、

華厳教の教えの中心は「理事無礙」と「事事無礙」である。「理」とは「ことわり」。私たち人間が直接感知できない源。大げさに言えばこの世の原「理」。そんなたいそうなことも、私たちが日々具体的に目にし、耳にし、肌で感じる一つひとつの事物・事象とつながっていると考えるのが華厳教における「理事無礙」という考えだ。一つひとつ異なり、バラバラに見え、生じる「事」も、因縁によってつながっている。それが「事事無礙」。すべてのものは全体的関連においてのみ存在する。

「ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起するということは、絶対にあり得ない。常にすべての物が、同時に、全体的に現起する」

これを「縁起」と呼ぶ。一瞬一瞬違う形が「縁起」によって生成=ジェネレートし、時々刻々と構造を変え、流れ続ける。

「無礙」とは互いに独立しつつ、しかし互いに融入し合うことである。このことを西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と呼んだ。絶対的に対立していながら相即する。相対的な違いを超えて絶対的に同じものであるという自己同一。

「理」という「全体的関連性の網(ネクサス)」がまずあって、そのつながりの「仮の結び目」にひとつひとつの「事」が生じたのであれば、そもそも「事」の内部構造の中に他の「事」とのつながりが含まれている。にもかかわらず、他方で「事」は「事」と争う。相互否定的に奪い合う。喰うか喰われるか、「事」と「事」とが熾烈に争い合う。しかし、喰われた「事」は、吸収されてしまうのではない。華厳は、喰った者の中に、他の一切のものを、隠れた形で見る。喰われてしまった他の一切のものが、喰った者の中に、可能性として残っているのだ。

喰った「X」が有力だったとしても、喰われた「非X」は可能性として「X」の内に含まれている。

これは原初の単細胞生物が、別の単細胞生物を食べてしまうことでお互いの能力を生かして多細胞化していった進化の流れのままではないか。ある細胞にとって地球上に発生した酸素は生命を奪う「劇薬」だった。しかし酸素と共存できる葉緑体細菌を取り込むことで「毒」を「エネルギー源」に変えることができた。哺乳類が胎盤を身につけることができたのも、ウィルスの持つ遺伝子を吸収したからだ。ミトコンドリアも然り。高度の知能を持つ人類の「理」は、かつてとりこんだ細菌やウィルスという微小な存在である「事」と「無礙」につながっている。これこそ華厳の教えそのものであり、西田の言う「矛盾的自己同一」だ。

西田は華厳の発想を自らの思想に取り入れて、当時、西洋哲学の主流だったヘーゲル的発想を乗り越えようとした。二つの対立を乗り越えて同一化するヘーゲルの弁証法では、個物の存在意義は全体によって一方的に規定される。しかし、華厳では、全体と個物の関係は先に述べたように「無礙」である。どちらかが優先されることはない。

個物は、全体から影響を受けることによって変化し、あるいは他の個物と関係し合うことによって変化する。変化することによって、結果的に全体に影響を及ぼす。他方、その全体も、個物からの影響を排除した融通の利かない「固定した全体」ではなく、個物からの影響を受け入れて柔軟に変化する、「生きた全体」である。西田はこう考えたのだ。

この哲学こそジェネレーターの根本をなす。