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江戸城のお堀から見えてくる世界

ジェネレーター自由研究(2021.10.5)

起|同じ対象物をみても、見える世界はこんなに違うのだ!

今回は海渡千佳さん(以下、カイトさん)と古川典子さん(以下、古ちゃん)にジェネレーター自由研究での発表を依頼した。なぜかというと、二人とも「江戸城のお堀」に偶然魅せられ、探検を始めたという共通点があるからだ。しかし、面白いことに、同じ「江戸城のお堀」を眺めても、焦点が違う。それゆえ、発表する内容も変わってくる。その視座の違いを今回の自由研究では面白がってもらいたい。そういう意図が僕の中にはあった。

カイトさんは数年前までとある大企業の人事部門にいて、僕がそこで研修講師をさせてもらっていた時からの付き合いだ。その頃から社内で女性向けのイベントや勉強会を仕切っていて、社員の誰もがカイトさんを慕っていた。とてもおおらかなのに、密かに心に野望を持っている。それがカイトさんの魅力だ。

古ちゃんとは西湖のゆるキャンプで知り合ったワーキング・ママである。もともとは市川さんの「ジェネレーター入門講座」に参加され、ジェネレーターのあり方に共感してもらい、そこからずっと古ちゃんは「みつかる+わかるのイベント」に参加してくれている。古ちゃんの魅力は、なんと言ってもあらゆるものに興味を持って面白がる姿勢だろう。真面目に取り組みつつ、遊び、遊びつつ、真面目に考える。それが古ちゃんなのだ。

そんな二人が「江戸城のお堀」をどうあるき、どう見たのか。その報告をしてみたい。

承|霊岸島・酒・江戸=楊州仮説

カイトさんは中央区佃島のタワーマンションに暮らしている。歩く前にマンションの上に登って、まずどこに行こうか、シンボルを探したらしい。そこで選んだのがこれだ。

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この幾何学的なオブジェのような建物は、日本の海水の水位を観測する観測所で、この霊岸島水位観測所は日本の海面平均を測る重要な施設だったそう。これがきっかけで、本当は築地方面に歩いてみようと思っていたが、なんとなく「霊岸島」を歩いてみようと考えた。すると、面白いことに、霊岸島には全国の酒造メーカーの東京支社が集結していたことを発見した。カイトさんによれば、キリンビールの本社も昔は霊岸島にあったそうだ。さらに歩くと、霊岸島の周囲の水路だけでなく、島内にも堀が巡らされ、全国の酒の集積地として繁栄していた場所だったという事実にぶち当たる。そして、江戸時代には細かく堀=水運が廻らされた水都であったことに思いを馳せる。カイトさんの頭の中では、すでに江戸の水都の実態をクリアにしたいという好奇心で一杯になっていた。そこで、ことあるごとに「堀」に注目して歩くことになる。たまたま見つけた「日本橋川クルーズ」に参加して、川の高さから東京の街を眺め、そこでさらに「河岸」を発見して、いよいよ外堀を多角的に見る視座が養われていった。その過程がとても面白い。

歩く過程で、カイトさんにはいくつかの仮説が浮かぶ。その中の面白いものに「江戸=楊州=柳の木を水運脇に植えたのは中国の楊州を真似たのではないか?」というものがある。江戸を設計するにあたって、徳川家康は水都を想定して、中国の水都で中でも「楊=柳」がついている「揚州」をモデルにしたのではないか?というものだ。ぜひ、この仮説が正しいかどうか、徹底的に江戸城築城に関する文献をあたってほしい。

転|見附・喰違見附門・天下普請

古ちゃんは自宅のある四谷近辺からFeel℃ Walkを開始した。そこで様々な雑を集積している。

日本左官業組合連合会・能楽堂・堀留・平川・見附などなど。

その中から古ちゃんは外堀から江戸城内に入る「門」に注目して、再度探検に出る。そこで気になったのが喰違見附門だった。ほぼ全ての門が立派な石垣でできているのに対して、この喰違見附門だけが土塁でできている。そして門も木で作った木戸門だったらしい。なぜ、ここだけしょぼいのか?それぞれの門には役割・地形・製作者の違いで個性が現れる。その門を深掘りすることで、その門にまつわる形の意味がわかるのではないか?

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*江戸の古地図で喰違門を見ると、どうも井伊と尾張に関係する人の近道になるので残したのではないかというあんちょこな仮説も考えられるね。

そう思った古ちゃんは堀や石垣がどう作られるのかを改めて捜査を始める。すると「天下普請」という方法が気になり始めた。天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。いわば、徳川政権下での公共事業と言ってもいい。各大名によって築城を役割分担して作ってきたので、大名ごとに個性が出て、それで見附門も違うのではないか、と古ちゃんは考えたのだった。

結|太田道灌・日本橋川・クルーズ企画

そこで喰違見附門を調べていくと、どうやらその歴史は古く、太田道灌(おおたどうかん)の時代にまで遡るようなのだ。太田道灌は徳川家康がリフォームする前の元祖江戸城を作った武将で、家康前の江戸を作った人物として知られ、東京の街を歩くと太田道灌の足跡に触れることが大変多い(根津神社にも太田道灌の記述があるし、開成高校がある台地は道灌山と言われていた場所だったり、まだまだたくさんあるのだ)。そこで、なぜ道灌の頃からある古い見附門が土塁のままあったのか?という疑問に対して、次のような仮説が参加者も交えて出てきた。

1:主要な街道と通じていなかったために土塁のまま残していた説

2:軍事的側面から大きな街道と喰い違いのように門を設置していたのではないか説

3:元祖築城の祖:太田道灌をリスペクトしてあえて古いまま残していたのではないか説

古ちゃんは喰違見附門を捜査しつつ、太田道灌がかなり気になってきたようで、次のFeel℃ Walkは太田道灌の足跡から東京を捉え直す冒険になりそうだ。

さて、カイトさんの日本橋川クルーズは思いのほか参加者の心を動かしたようで、ぜひ参加したいというチャット意見が多かった。そこで、We are Generators!の皆さんと江戸城お堀クルーズを企画しようという話が持ち上がっている。

ぜひ、We are Generators!の参加者は、Facebookの秘密基地の情報に注目していてほしい!

*こちら「大人の自由研究」の映像は、

にご参加いただけますと、アーカイブ映像を見ることができます。こちらはジェネレーター仲間が集う、基地になり、他にも学びのイベントが盛り沢山です。