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ジェネレーターたちの知図展(1)

京都・北白川 旧梅棹忠夫邸 rondoKreanto

知図展のはじまり

知図という言葉は、数年前に僕が市川さんと話をする中で生まれた言葉だ。たしか東京文豪探究を行っていた際に、市川さんが山手線の地図上に文豪の痕跡を書き込んで、その横に市川さんオリジナルの仮説が書き込まれていた不思議なメモを見せてくれた。その時、僕は「市川さん。これは地図ではなく、知がマッピングされたものですね。知図と言った方がいいです。」と発言し、それから僕と市川さんの間で、合言葉になったものだ。

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その後、市川さんと一緒に「知図講座」なるものをはじめた。コロナ禍で誰も外に出たがらない時に、自分の家の周囲にある不思議を発見し、みんなで知図に描いてZOOMで愛でる。そこに参加してくれたメンバーたちが面白がって、その後も知図を描き続けていた。知図は自分のアンテナに引っかかったものをメモがわりに写真で撮って、家に帰ってきた後にその写真をよく見て模写する。その際に、よく観察しないと絵が描けないから、絵を描きながら色々な考えが脳裏を巡る。それも知図に書き留めておく。すると、なんとも不思議な、好奇心に満ちた記録が誕生する。この作業をひたすらやっていたのが、かのレオナルド・ダ・ヴィンチだ。歴史家のウォルター・アイザックソンによれば、現存するダ・ヴィンチのノートは7200枚あるが、実際はその4倍あったという。つまり、約3万枚の知図をダ・ヴィンチは保有していた。想像してほしい。自分の体験により、観察記録、仮説、メモが3万枚あったら、それは誰でも天才になる感覚が芽生えるだろう。

 

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この意志を高校生の頃に継承した若者が京都にいた。それが若き日の梅棹忠夫先生である。名著『知的生産の技術』には、こう書かれている。

 

“『神々の復活』にでてくるダ・ヴィンチは、もちろん、よくしられているとおりの万能の天才である。しかし、この天才には奇妙なくせがあった。ポケットに手帳をもっていて、なんでもかでも、やたらにそれにかきこむのである。町をあるいていて、であった人の顔の特徴をかきこむ。お弟子がかいものにいってかえってくると、いちいち品物の値段をきいて、かきこむ。まったく、なんの役にもたちそうもないことまで、こくめいにかきこむのである。

高校生だったわたしには、この偉大な天才の全容は、とうてい理解できなかったけれど、かれの精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかでもかきこむこととのあいだには、たしかに関係があると、わたしは理解したのである。それでわたしは、ダ・ヴィンチの偉大なる精神にみずからをちかづけるために、わたしもまた手帳をつけることにした。”

 

このことを思い出した時、市川さんと僕の中で知図展を行うのであれば、京都・北白川 旧梅棹忠夫邸 ロンドクレアントで行う以外考えられなくなったのである。それで僕が京都に行くタイミングで、ロンドクレアントの主人梅棹マヤオさんに企画展の構想を話し、ロンドクレアントでの開催をお願いしたのが2022年6月5日だ。ここでマヤオさん、奥様のミイさんに快諾いただき、秋に実施する運びとなった。

 

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*6月に知図展の相談にロンドクレアントを訪れた時の一コマ

 

知図のつくり方

ロンドクレアントでは毎日にようにコーヒーを飲みにくるお客様がいるようで、展示会の参加費を取ることができない。それで収入源となる何かをつくらなければならなかった。そこで考えたのが企画展のパンフレット「知図のつくり方」である。僕と市川さんがどのようにあるき、どのように記録しているのかをまとめたものだ。当初、「知図講座」の資料と僕が龍谷大学で行っている「知の技法:Generative Learning」の資料を編集すれば良いと思っていた。しかし、市川さんと議論するにつれて、これはオリジナルでゼロからつくった方がいいという話になった。そこで生まれたのが知図展で初めてお披露目した”「あ」の6進法”である。

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僕たちは、あちこちあてもなくあるくときもあれば、決めたものやことを探してあるくときもある。あるいてみつかったことはとりあえずなんでもあつめる。するとしょうもないようなただの思いつきがあらわれる。その思いつきに本や博物館の情報をあわせると、「結構オモロイかも」という仮説があらわれる。この仮説を磨くには、自分の言葉であらわして、みんなでワイワイ語り合う。これをひたすら繰り返すのが知図づくりの「6進法」だ。

ロンドクレアントで参加者にこの話をすると、みんなの眼がイキイキと輝き出すのが嬉しかった。

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書生の暮らし

ところで僕と市川さんは梅棹邸の離れの和室に6日間宿泊させていただいた。僕らの生活パターンはこう。

毎朝7時くらいに起床し、そこから知図展が始まる11時まで朝食兼Feel度Walkを行う。11時から19時まで知図展があり、終了後晩御飯を食べに京都大学がある百万遍方面にあるき始める。晩御飯のお店はマヤオさんとミイさんのオススメする先に行くことがほとんどで、これだと間違いなく美味しい料理にありつける。22時前に帰宅して、そこから毎晩マヤオさんとお酒を飲みながら、いろいろな話をして24時前に就寝という感じだ。

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実は何より新鮮だったのは、梅棹家のご家族と1週間近く一緒に生活させていただいたことだった。自分の実家も親戚の家にも1週間近く一緒に暮らすことなどない。書生暮らしをする中で、マヤオさんとミイさんがどのように息子たちと接し、息子のお嫁さんとどういう関係を築いていて、お孫さんをどう可愛がっているのか、ご高齢のお母さんとどう暮らしているのか、を観察できたことは、僕がこれから家族や親と接していく上で「お手本」の1つを垣間見ることができた貴重な体験だったのである。

 

父・梅棹忠夫

 

その中で強烈だったのが晩年の梅棹先生に会い梅棹先生に関する書籍を書いた藍野裕之さんをゲストに、梅棹先生の思い出話を聞かせていただいていた時のことだった。藍野さんがマヤオさんに「父・梅棹忠夫はどんな人だったのですか」と質問した返答が、僕らの想像を超えるものだった。マヤオさんはこう言ったのだ。

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「友達に<マヤオのところは、マヤオを丁寧に育ててると思うわ>と言われたんやけど、ほんま、親父には丁寧に育ててもらいましたわ。」

 

この瞬間、藍野さんも僕も市川さんも、みんな目を丸くして、そして感動してしまったのである。そして、父親としての自分に照らし合わせて見たときに、子供たちから「親父には丁寧に育ててもらいましたわ」と言ってもらえるか、正直自信がないというのが本音のところ。その意味で、僕らの中で、父としても梅棹忠夫先生は尊敬してやまない、理想のモデルとなったのである。