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赤坂憲雄先生の民俗知への眼差し

We are Generators! ジェネレーター研究|2022年2月25日

· 学びの眼鏡

方法:「聞き書き」を反芻する

「僕は民俗学者と名乗るのが恥ずかしいです。誰にも教えてもらったことがないからです。すべて独学でやってきたので、フィールドワークとは言わず、”野辺歩き”とか”野良仕事”とか言って恥じらいを表現しています。テーマなんてありません。即興で、向かい合って始まるんです。だから、現場に入って収穫がなくても、何の問題もないんです。人々の人生を聞いてあるくことで、人生を分けていただきました。」

語りは、こんな言葉から始まった。

赤坂憲雄先生の方法は、”聞き書き”である。東北芸術工科大学に赴任された90年代から集中して東北で”聞き書き”をはじめ、のべ300人のライフヒストリーを聞き歩いた。「あるく・みる・きく」の宮本常一の方法と比較すると、赤坂先生の方法はとりわけ「きく」への比重が大きい。人びとの人生に耳を傾け、その奥底に潜む民俗知、民間知、臨床知ともいうべき、「現場で大事にされているもの」に眼を向けている。しかし、面白いのは赤坂先生自身、話を聞いた時には、その奥に潜む知についてははっきりとは解らないというのだ。何年か後、それは何十年後に「あっ、あの時のお爺さんが話していたことは、このことだったのか」と気づくことも多いという。”聞き書き”の記憶を反芻しながら、民俗知が徐々にクリアになっていくのである。

赤坂先生の語りに浸った余韻の後、改めて『民俗知は可能か』(春秋社)を読んでみると、この本の中であげられている石牟礼道子、岡本太郎、網野善彦、宮本常一、柳田國男の面々は、「聞き書き」を反芻しながら自身の言葉に巧みに変換し、名著に仕立てている点で、つまり方法論として共通している人たちなのではないかと思える。そして、もっと言ってしまえば、その方法は赤坂先生自身にもつながっていて、その意味で共振する面々なのではないかと思えてならない。

 

原理:無主・無縁の山海

赤坂先生は、多くの聞き書きの中から「無主物は皆で平等に分配する」といったコモンズの民俗知を、山野河海の共的世界から発見している。例えば、山のキノコ取りの話。ここでは「山の物は先着の人のもの」というルールがある。松茸のような商業的縄張りがはっきりしているものは例外だが、マイタケのように自然に生えている茸には所有権がなく、無主物として扱われるのだ。

それは海にも見られる。山形県鶴岡市の加茂漁港で聞き書きした「天秤棒」の事例である。漁獲した魚を半分くらい天秤棒でかつぎ出し、勝手に分配するが、船主はそれを見て見ぬふりで容認するらしいのだ。海という無主・無縁の世界からのいただきものは、命懸けでとった船乗りたちこそが平等に分配する権利を持つのである。

明治以降、西欧の「所有」の概念が浸透し、持つものと持たざる者の格差が生じる中で、赤坂先生は「無主・無縁の原理」が自分だけ所有することは道徳的に嫌われると言ったモラルと対をなしていることにも注目している。赤坂先生の民俗知への眼差しは、共同や入り合いなど、行き過ぎた格差社会を是正するヒントを模索するものでもあり、それを今に合う形でリ・デザインできないかという未来につながっている。そして、その眼差しの根源は東日本大震災にあるように思える。お父さんの故郷でもあり、東北芸術工科大学など縁のある東北の惨劇から復興する知恵を民俗知から見出そうとしているのではないだろうか。

*室田武編著「コモンズ研究のフロンティア」や中村尚司・鶴見良行編著「コモンズの海」は、無主無縁の原理を深める論考に溢れている。

 

言葉:聞く・編む・書く

『民俗知は可能か』の中で、”耳の言葉”と”眼の言葉”という表現がある。”耳の言葉”は「声や語り部」であるのに対して、”眼の言葉”は「文字や文献」を指す。赤坂先生の出発点は”耳の言葉”である。”耳の言葉”=聞き書きは、聞くと書くという二つの作業のように見えるが、実はその間に見えない「編む」という大事作業が隠れていると赤坂先生は指摘している。この「編む」は聞いてすぐ編む場合もあれば、何十年と経ってから編む場合もあって、何十年も考えが発酵してから編むと書く内容も変わってくるのだそうだ。そこには正しいとか、正しくないとかはない。柳田國男が『遠野物語』を生み出すときに、聞きたるままを書いたのではなく、感じたるままを書いた。だから、その時に感じたものをどう編むか、が大事だという赤坂先生の指摘には強い共感を覚えた。

さらに宮本常一の方法論と再度比較してみると面白い。宮本がまずフィールドを歩き、さまざまな雑を写真で押さえて、その後、住民に聞く作業をする順序であるのに対して、赤坂先生は逆。つまり、まず人のライフヒストリーをじっくりと聞いた中から、ヒントを見つけて、そこにつながる対象物を見て、歩くように感じられた。そして、さまざまな断片を編み直して、作品にしていくのだ。

これも、どちらが正しいか、正しくないかではなく、どちらも面白いアプローチであり、臨機応変に使えるようになりたいと思った。

 *今回のウェビナーのテキストにもなっている『民俗知は可能か』(春秋社)

融合:民俗知を生成知にするプロセス

赤坂先生の語りを聞いた後、再度ジェネレーターの学びについて考える。赤坂先生の「テーマもなく、即興で、人と向き合ってはじまる」学びは、僕らが考えている「みつかるモデル」にそっくりで驚くくらいだった。なんの目的もなく、ただ歩いて、ひたすら雑(=その場で、なんとなく気になったものたち)を集めて、あれこれ考えていると、いつの間にか「仮説」が生成されてしまう。この生成する学びは、赤坂先生が指摘した「編む」学びとニアリーイコールなのではないだろうか。そのメカニズムは、「多数の要素が複雑に相互作用をし合い、雑のかけらたちが、それらをはるかの超えたスケールで勝手に自己組織化する」複雑系のイメージに近い。

実は赤坂先生にウェビナーにご参加いただく際、僕は民俗学の方法論を教えてほしいとお願いした。それは僕らが考えているGenerative Learningのヒントをいただきたかったからだった。しかし、赤坂先生のお返事はNO。「方法論についてではなく、今考えている民俗知を宿す言葉たちというテーマであればOK」というお返事だった。今になって思えば、アカデミックな民俗学の訓練を受けているわけでもなく、独学であるから、方法論を語るのは本意ではないということだったのだろう。しかし、赤坂先生の独自の方法論である”聞き書き”をじっくり議論し、深掘りできたおかげで、結果的に僕らが構想している新しい学びの本質が赤坂先生の方法論とつながっていることを確信することができた。

赤坂先生からいただいた語りを宝物にしながら、それを今に合う学びとしてリ・デザインしていきたいと思う。

 

*赤坂先生とのウェビナー動画をご覧になりたい方は、ぜひWe are Generators!に登録して、一緒に新しい学びを生み出し、実践する仲間になってください。お待ちしております。

 

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